廃盤
97CD
クレメンス・クラウス・コレクション
1929-1954年録音集
堂々たる97枚組ボックスは,クラウスの遺した録音を大量に集めたもので,本業のオペラに加え,
コンサート指揮者としての録音や,合唱大作も多数収録,中には歌曲をクラウスがピアノ伴奏したものもあったりします。
定評あるウィーンやミュンヘン,バイロイトでの録音に加え,バンベルク交響楽団を指揮した録音にも注目で,
たとえば「メタモルフォーゼン」(CD18)では,バンベルク響の弦をまるでウィーン・フィルのように響かせて,戦争による破壊への悲しみを,師シュトラウスへの思いと共に甘美に表しているかのようですし,
クープランのクラヴサン曲をアレンジしたR.シュトラウスの「ディヴェルティメント」(CD18)では,のちのエンニオ・モリコーネに影響を与えたのではないかとすら思えるゴージャスな美しさにあふれる作品を究極の優雅さで演奏しています。
また,戦後は作品によっては非常に自由な演奏を聴かせることもあったようで,ブレーメン・フィルとのライヴのブラームス交響曲第1番の大爆演(CD6)など驚かされます。
元外交官を父に持つバレエ・ダンサーと,騎手で資産家の名士とのあいだに生まれたクレメンス・クラウスは,長年に渡ってオペラ指揮者として活躍した人物ですが,コンサート指揮者としても早くから活動。
1920年代にマーラー・チクルスをおこなったり,ブルックナー作品をいくつもとりあげたりしたほか,
ベルクやストラヴィンスキーなど20世紀作品にも取り組むなどその姿勢は積極的かつ進歩的。
戦時中にはオペラやコンサートの活動と並行し,放送を通じて多くの人々にシリアスな合唱曲に接してもらおうと,
マタイ受難曲やオラトリオ,ミサ曲などの合唱大作シリーズを企画,
また,連合軍の侵攻が本格化しても,ほかの独墺指揮者のように避難したり外国に逃げたりせず,
戦火の中,最後までウィーンに留まってウィーン・フィルとの演奏会を開催,
ソ連軍がウィーンの街を占領してもコンサートをおこなったほか,
ユダヤ人救出で知られるアイダ&ルイース姉妹を支援するなど,その母親譲りの舞台への情熱と,父親譲りの度胸にはすごいものがあったようです。
また,文学も大好きだったクラウスは,オペラ「カプリッチョ」の台本を書くほどの文才に恵まれていたほか,23歳のときにはライナー・マリア・リルケの詩による8つの歌曲を作曲もしていました。
戦後はフリーの指揮者となり世界各国に客演,1955年には西ドイツ政府の後援で日本でも指揮する予定だっただけに,
仕事熱心さゆえのメキシコでの早すぎる客死は本当に残念でした。
高度な指揮技術~弟子にはカラヤンやスイトナーも
少年合唱団時代からマーラーはじめ多くの指揮者と仕事をしてきたクラウスは,指揮のテクニックにも長けており,
29歳の時には,ウィーン音楽院が新たに指揮コースを用意して教授に迎えたほど。
そこでクラウスに師事していたカラヤン[1908-1989]は,その指揮ぶりについて,「最小の身振りでオーケストラから最大の明晰さと正確さを引き出した」と称えてもいました。
クラウスはウィーン音楽院とザルツブルクのモーツァルテウムで教えており,弟子にはほかに,
オトマール・スイトナー[1922-2010],シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ[1924-2006],ハインリヒ・ホルライザー[1913-2006],
ヴィルヘルム・ロイブナー[1909-1971],フランツ・バウアー=トイスル[1928-2010]のほか,
史上初のハイドン交響曲全集録音をおこなったエルンスト・メルツェンドルファー[1921-2009]といった指揮者もいました。
クラウスの指揮テクニックは,当時の演奏技術では難易度の高かった20世紀作品の膨大な楽譜情報の処理にも適しており,
通常よく見受けられる「声部の埋没」や,「アクセントやリズムの平坦化」といった主に指揮者の責任によるマイナス要素がほとんど無いため,
R.シュトラウスのオペラなど,音符の数の多い複雑な作品にも打ってつけで,
実際にシュトラウスの信頼を勝ち得て,弟子の筆頭ともいえる存在になっていました。
コンディション良好。
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